第1部 モーセの最期 ― 偉大なる指導者の歩みの終わり
モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、神の奇跡によって紅海を渡り、荒野の40年を導きました。彼は律法を授け、民を教育し、時には神の怒りを和らげる仲介者として立ちました。
しかし彼自身は、約束の地を目前にしてヨルダン川を渡ることを許されませんでした。
申命記32:52にはこう記されています。
「あなたはこの地を遠くから見ることはできる。しかしそこへ渡って行くことはできない。」
これはモーセの老齢や体力の限界によるものではありません。**神が「渡ることを赦されなかった」**のです。
モーセは偉大な信仰者でありながら、民の前で神の聖さを示さず、自らの力で岩から水を出すように振る舞ったことがありました(民数記20:10–12)。
神はそれを重大なこととされ、モーセに「渡らなくてよい」と告げられました。
第2部 神の御心 ― 涙は罰ではなく完成
モーセはネボ山に登り、そこから約束の地を見渡しました。北にはレバノンの山々、南には荒野と死海、そして西にはカナンの丘陵が広がっていました。彼はそのすべてを目に焼き付けながら涙を流しました。
その涙は敗北の涙ではありません。むしろ、神の御心の完成を受け入れた涙でした。
神はモーセを民のリーダーとしてここまで導かれましたが、それ以上はヨシュアに託されました。
そして聖書はこう記しています。
「こうして、主のしもべモーセは死んだ。主はモアブの地の谷で彼を葬られた。」(申命記34:5–6)
神自らがモーセを葬られた――これは特別な愛の証しです。
人間の使命は有限ですが、神の計画は永遠に続くことを示しています。
第3部 現代への適用 ― 私たちのヨルダン川
「ヨルダンを越える」とは、単なる地理的な川を渡ることではありません。
それは、人生の最終関門を越えて、神の祝福と栄光を受け取ることを意味します。
荒野のような試練、孤独、病、苦難に満ちた人生を歩み抜き、信仰を持って最後まで進んだ者は、やがて神のもとに迎え入れられるのです。
モーセでさえ渡れなかった。偉大な信仰者であっても、自分の力では渡れない。
だからこそ、私たちは「神が渡らせてくださる」という恵みに信頼しなければなりません。
🛡 テンプルナイトの剣の言葉
「ヨルダンを越えるとは、ただの地を渡ることではない。
それは、荒野の人生を涙と信仰で歩み抜き、最後に神の祝福に迎え入れられること。
モーセでさえ赦されなかった。だがそれは敗北ではなく、神の愛の完成だった。
われらもまた、最後には光に抱かれ、永遠の地へと導かれる。」