The Uncrowned Prophet (無冠の預言者)

王冠なき者、だが神の火を帯びて語る。 沈黙の時代に燃え立つ――天の剣。Crowned by no king, yet ablaze with divine fire. In an age of silence, one sword speaks.

1) 旧約の用語:まず「二種類」が並び立っています

A. 遊女(一般の売春)= זֹנָה(ゾーナー / zonah)

  • いわゆる “普通の売春婦” を指す語として出ます。
  • 創世記38章(ユダとタマル)で、ユダがタマルを zonah(遊女) と誤認する場面が典型です。

B. 神殿娼婦(聖なる女/聖なる男)= קְדֵשָׁה(ケデーシャー / qedeshah), קָדֵשׁ(カデーシュ / qadesh)

  • しばしば英訳で “temple prostitute / cult prostitute” と訳される語です。
  • 語根は「聖別」を意味する q-d-sh(קדש)で、字面だけ見れば“聖なる者”ですが、旧約では 異教礼拝と結びつく不浄として出てきます。

2) 何が違うのか(最重要ポイント)

違いは「目的(意味づけ)」です

✅ 遊女(zonah)

  • 金銭目的の性的売買(世俗)
  • 罪ではあるが、宗教制度と一体ではない

✅ 神殿娼婦(qedeshah / qadesh)

  • 宗教(異教礼拝)と結びついた性行為という理解で読まれてきた
  • 旧約の視点では、これは単なる性犯罪ではなく
    偶像礼拝(霊的姦淫)として扱われる領域です

つまり旧約が特に憎むのは
「性の罪」だけでなく、性を“神への礼拝の代替”にする欺きです。


3) 起源はどこか:なぜ“神殿+性”になるのか?

旧約が念頭に置いているのは、カナン周辺の **豊穣信仰(バアル/アシェラ系)**の文脈です。

  • “豊作・多産”を願う儀礼があったと理解され、
    その中で性的要素が礼拝に混ざった、という説明がなされます
  • 旧約はこうした実践を **「異邦の忌むべき習わし」**として明確に線引きします(申命記23章)。

4) 「忌むべきものではなかったのか?」→ はい、明確に忌むべきものです

旧約の禁止は強烈です(申命記23:17-18)

  • イスラエルの男女は qedeshah / qadesh になってはならない
  • 売春の代価を主の宮に持ち込んではならない
    (=それを礼拝資金にするな、混ぜるな)

さらに列王記では、ユダ王国において male cult prostitutes(qadesh)がいたとされ、これを「忌むべきこと」と結びつけています。


5) それなのに「なぜ残されたのか?」

ここは2層あります。**(神学的理由)+(編集史的理由)**です。

A. 神学的理由:聖書は“美談集”ではなく、堕落と回復の記録だから

旧約は一貫してこう描きます。

  • 人は神から離れる
  • 偶像礼拝が入り込む
  • 民は崩れる
  • しかし神は裁き、立て直し、回復へ導く

神殿娼婦(あるいはそれに類するもの)の記述は、
**「混ぜ物をした礼拝がどう国を壊すか」**の実例として残されています。

B. 編集史的理由:実在の制度だったかは議論がある(重要)

近年の研究では、

  • qedeshah を「神殿娼婦」と訳すのは誤訳・過剰解釈の可能性
  • “神殿売春”そのものが、考えられてきたほど確実な制度として証明できない

という批判があります。

つまり――
旧約は「その種の“聖別された性の役割”が存在しうる世界」を強く否定しているが、
それが常に「神殿で組織的に行われていた売春」を意味するかは、慎重に読む必要がある、ということです。


6) 「遊女の報酬」と「神殿」はなぜ結びついて禁止されるのか?

申命記は非常に現実的です。

  • 売春で得た金を、献金として持ち込む
  • それで宗教儀礼を回す
  • すると **罪が“浄化された気分”**になる
  • 結果、罪が制度化される

これを神は断ち切る。
だから「金の出所」を神殿から排除します。

これは宗教の純潔を守るというより、もっと鋭い目的です。

人間が罪を“献金で相殺できる”と錯覚する道を封じる。

闇はこれを常にやります。
罪の後に「奉仕で帳消しにした気になる」
悔い改めではなく、計算です。すり替えです。


7) 実用まとめ:旧約が嫌うのは「性」よりも“混ぜ物の礼拝”

整理するとこうです。

区分ヘブライ語ざっくり意味旧約の評価
遊女zonah世俗の売春罪(不義)
神殿娼婦(と訳されがち)qedeshah / qadesh“聖別”を名乗る異教的役割(性を含むと理解される)忌むべきもの(偶像礼拝の混入)

※ただし「神殿娼婦」が“制度としての売春”だったかは議論あり。


結論:なぜ残ったか?

残された理由は、あなたが今感じた疑問そのものに答えるためです。

  • 人は、神を礼拝しているつもりで、簡単に異教と混ぜる
  • 罪は、宗教の中に入り込むと最も危険になる
  • だから旧約は、恥も失敗も隠さず書き、警告として残す

もしあなたが「ヨブ記の時代背景」と接続したいなら、次はこう進められます。

  • ヨブ記の世界では神殿中心の宗教ではなく、家長礼拝が中心
  • だから“神殿娼婦”の問題は、直接の舞台装置というより
    **「後代のイスラエルが混ぜ物に沈んだ例」**として響く
  • ヨブの争点は「礼拝の純潔」ではなく、義人の苦難と神の正義へ焦点がある

ユダヤ教(旧約=トーラー)も、キリスト教(新約)も「遊女(売春)」を“是認”しません
ただし――

  • 法律として禁止すること
  • 社会から完全に消滅させること
  • 当事者を共同体から永久追放すること

は別問題です。

結論を先に言うと、

結論

  • ユダヤ教(トーラー)は禁止した(特に“神殿に結びつく形”は強く禁じた)
  • キリスト教も罪として禁じた(ただし悔い改める者を「排除ではなく回復」へ向けた)
  • それでも「存在が記録に残る」のは、現実に行われたからであり、聖書はそれを美化せず、罪として記録したからです。

1) ユダヤ教(旧約)は「禁止した」のか?

禁止しています(かなり明確です)

✅ ① イスラエルの中に“宗教的売春”を置くことを禁止

申命記は、イスラエルの男女が **qedeshah / qadesh(聖別を名乗る性的役割)**になることを禁じ、さらにその代価を神殿に入れることも「忌むべき」とします。

✅ ② 家族を売春に落とす行為も禁止

レビ記は「娘を遊女にしてはならない」と明確に止めています。

✅ ③ 祭司階級にはより厳しい規定

祭司は「遊女であった女性」を妻にできない、という規定があります(祭司の聖別を守るため)。


では「排除=共同体から追放」だったのか?

ここは誤解が起きやすい点です。

  • トーラーは「売春を是認」していません
  • しかし同時に、近代国家のように“完全取り締まり”できる制度でもない
  • そのため、現実社会としては存在し得る(そして存在した)
  • ただし律法はそれを“聖なる共同体の外の行為”として扱い、神殿と混ぜることを特に拒絶します

2) キリスト教(新約)は「禁止した」のか?

はい、罪として明確に禁じています

パウロは、売春と結びつくことを強く退け、「性的不品行から逃げよ」と命じます。

つまりキリスト教は、

  • 「売春はOK」ではなく
  • **“キリストに属する体を汚す罪”**として扱います

では「排除」なのか?

キリスト教の特徴はここです。

✅ 行為は罪として断つ

しかし

✅ 人は悔い改めによって回復へ招く

新約の中心線は「断罪して切り捨てる」ではなく、
罪を悔い改める者を回復させる方向にあります。

要するに、

  • “売春を許す宗教”ではない
  • “売春者を永久追放する宗教”でもない

この張り詰めた両立です。


3) じゃあ、なぜ「排除して消えなかった」のか?

理由はシンプルで、現実が強いからです。

現実的要因(古代社会)

  • 貧困
  • 戦争未亡人
  • 奴隷制度
  • 社会保障の弱さ
  • 男性優位の搾取構造

こういう条件がそろうと、売春は**“道徳以前に発生する”**ことがあります。

だから聖書は、売春を「美談」にして残したのではなく、
罪と堕落が共同体をどう汚すかの実例として残しました。


4) 「禁止」なのに記録が多いのは矛盾では?

矛盾ではありません。

聖書は基本的に

  • 人間の失敗を隠さない
  • 堕落を直視する
  • そのうえで、神がどう裁き、どう救うかを示す

という作りです。

だから売春は **“残された”のではなく、“消せなかった罪として記録された”**のです。


5) まとめ:あなたの質問への直球回答

Q. 遊女をユダヤ教・キリスト教は排除しなかったのか?禁止にしなかったのか?

禁止しました。(旧約も新約も、肯定しません)

  • 旧約:共同体の聖別と神殿の純潔のために強く禁止
  • 新約:性的不品行として強く禁止

ただし「存在を完全消滅」させたわけではありません。
現実社会の歪みが残るからです。

そしてキリスト教は特に「悔い改めた人を回復に招く」方向が強い。
罪を切るが、人は見捨てない。

なぜ神殿娼婦は“特に忌むべき”なのか」を、旧約の論理で一直線に整理します。


なぜ神殿娼婦は“特に忌むべき”なのか

結論:これは単なる性の罪ではなく、**礼拝そのものの破壊(偶像礼拝+霊的姦淫)**だからです

旧約において神殿娼婦(qedeshah/qadesh と呼ばれる概念)は、しばしばこういう位置づけになります。

  • 性の堕落(身体の罪)
  • それ以上に
  • 神への背信(契約の破壊)
  • さらに
  • 神殿を“別の神の装置”にする混入(聖と俗の転倒)

だから、普通の遊女以上に「忌むべき」とされるのです。


1) いちばんの本質:偶像礼拝=霊的姦淫だから

旧約は、神とイスラエルの関係を「契約=婚姻」に喩えます。

  • 神=夫
  • 民=妻
  • 他の神々に走ること=姦淫(浮気)

この比喩はホセア書やエレミヤ書で極めて強烈に描かれます。
偶像礼拝は、単なる宗教の選択ではなく、契約への裏切りとして語られます。

ここで“神殿娼婦”的な要素が加わると、問題はさらに深刻になります。

「礼拝の場」で
「神を装って」
「別の神の体系に身体と心を売る」

つまり 姦淫が“礼拝として制度化”されるわけです。
これが最悪なのです。


2) 「聖(きよい)」という言葉を盗むから(聖の冒涜)

この種の語(qedeshah/qadesh)は語根が「聖別」を含みます。
字面の上では「聖なる者」なのに、旧約の評価は真逆になります。

  • を名乗りながら
  • 不浄を働く

これは単なる罪ではなく、**神の名・聖性の“盗用”**です。
闇が最も好む手口です。


3) 神殿を汚すだけでなく、神殿を“汚れの正当化装置”にするから

申命記はここを明確に遮断します。

  • その行為を禁じるだけでなく
  • 売春の代価を主の宮へ持ち込むことも「忌むべき」とする

これは本質的にこういうことです。

「罪で稼いだものを献げれば、罪が洗われた気になれる」

それを神は断ち切ります。
罪を“礼拝資金”に変換して回す仕組みは、共同体を内部から腐らせるからです。


4) 「神の民の聖さ」を破壊するから(混ぜ物の礼拝)

列王記では、ユダに male cult prostitutes / shrine prostitutes がいたことが、異邦の「忌むべき慣わし」と並べて語られます。

つまり、旧約の視点ではこうです。

  • それは単なる“個人の性的堕落”ではなく
  • 異邦の礼拝形態(偶像礼拝)の侵入

だから「排除すべき汚れ」になります。


5) 社会的にも“弱者搾取”の温床になりやすいから

古代社会で「宗教」「権威」「性」が結びつくと、何が起きるか。

  • 断れない
  • 逃げられない
  • 罪悪感を抱いても声が出せない
  • 支配者が“神の名”で搾取する

旧約が守ろうとしているのは、単なる道徳ではなく、共同体の命です。
神殿にこの構造が入ると、信仰は“救い”ではなく“支配”に変質します。


6) 注意点:学術的には「神殿娼婦=制度的売春」の確定は慎重

ここは誠実に付記します。

近年の聖書学では、qedeshah を機械的に「神殿娼婦」と訳すのは誤訳の可能性がある
という議論が強くあります。

ただし、ここが重要です。

制度としての“神殿売春”がどの程度あったかは議論があっても、
旧約が「礼拝と性の混合」「異教儀礼の混入」を忌むという軸は揺らぎません。


最終まとめ(芯だけ)

神殿娼婦が“特に忌むべき”なのは、これです。

  1. 偶像礼拝=霊的姦淫を“礼拝の形”として成立させるから
  2. 聖を名乗って不浄を行う(聖性の盗用)
  3. 罪を神殿に混ぜ、正当化装置にする(代価を宮に入れる)
  4. 共同体の聖さと秩序を崩壊させる(列王記で“忌むべき慣わし”として描写)

**「旧約の改革=王たちが“追い出した”場面」**を、**時間順の流れ(反復するパターン)**としてまとめます。
ここで追い出される対象は主に、

  • 高き所(地方祭壇)
  • アシェラ(偶像・柱)
  • バアル系儀礼
  • 神殿/周辺に入り込んだ“混ぜ物”(その象徴が神殿娼婦/男娼の住居)

です。


旧約の改革史:追い出しの流れ(王たちの戦い)

0) 背景:改革が必要になった理由

まず大前提として、イスラエル/ユダはしばしば

  • 「主の宮(正統礼拝)」を持ちながら
  • 「異教の礼拝(高き所・アシェラ)」を並行運用する

という **“二重運用”**に落ち込みます。
この「混ぜ物」が、霊的崩壊の根です。

特に「神殿娼婦」が象徴的に忌まれるのは、**罪が“礼拝の施設に内蔵される”**からでした(礼拝の自己破壊)。


1) アサ王(Asa)の改革:まず「国内から追放」する

ユダのアサ王は、改革をこう書かれます。

「男娼(male cult/shrine prostitutes)を国から追放し、先祖の偶像を除いた」
(1列王記15:12)

ここが重要です。

  • アサは“神殿周辺”だけを掃除したのではなく
  • 国全体から排除した(=社会構造として切り離した)

改革の第一段階は、いつもこれです。
「境界線を引く」。混ぜない。


2) ヨシャパテ王(Jehoshaphat)の改革:高き所とアシェラを削る

次にヨシャパテ王。歴代誌はこう述べます。

「高き所とアシェラ像(柱)をユダから取り除いた」
(2歴代誌17:6)

ここで見えるのは、改革の第二段階です。

  • 偶像そのものを壊す(目に見えるシンボルの撤去)
  • 地方礼拝の導線(高き所)を潰す

要するに「入口」を塞ぐ。
闇は入口さえ残せば、必ず戻って来ます。


3) ヒゼキヤ王(Hezekiah)の改革:礼拝の“中央集権化”へ

さらに時代が下り、ヒゼキヤ王はより強く踏み込みます。

「高き所を除き、石柱を砕き、アシェラを切り倒した」
(2列王記18:4)

そして特筆点として、

  • モーセの青銅の蛇さえ砕く(崇拝対象化していたため)

つまりヒゼキヤは、“由緒ある聖なる遺物”であっても、偶像化したら切る
これは改革の第三段階です。

伝統すら、神より上に置かれた瞬間に“偶像”になる。


4) ヨシヤ王(Josiah)の改革:神殿内部の“巣”を破壊する(頂点)

改革史の頂点がヨシヤ王です。
ここで「神殿娼婦」問題が最も露骨に記されます。

「主の宮の中にあった男娼の家(住居)を取り壊した。
そこでは女たちがアシェラのための織物を作っていた」

(2列王記23:7)

ここは衝撃的です。

  • 問題が「宮の外」ではない
  • “主の宮の中”に巣がある
  • しかも、アシェラ礼拝の工作(織物)が同居している

これがなぜ最悪か。
神殿が、神礼拝の場ではなく、混合宗教の工房にされているからです。
ヨシヤはそこを物理的に壊します。徹底的です。


改革のパターン(旧約が繰り返し描く“戦いの手順”)

旧約の改革は、だいたい同じ順序を踏みます。

  1. 追放する(人・役割・商売を断つ)
    └ アサ「男娼を追い出す」
  2. 破壊する(偶像・アシェラ・高き所の除去)
    └ ヨシャパテ/ヒゼキヤ「高き所とアシェラを除去」
  3. 中心を回復する(礼拝の純化・中央化)
    └ 神殿礼拝へ戻す(混ぜない)
  4. 巣を叩く(神殿内部の混合施設を破壊)
    └ ヨシヤ「宮の中の男娼の家を破壊」

では、なぜ“追い出しても”また戻るのか?

ここが旧約の厳しい現実です。

  • 偶像礼拝は「思想」ではなく、生活と利益に直結する
  • 高き所は近い、便利、気分が良い
  • アシェラは“願いが叶いそう”に見える
  • そして闇は、必ずこう囁く
    「両方やっておけば安全だ」(混ぜ物の思想)

改革は、一度で終わるイベントではなく、継続戦争として描かれます。


実用の結語:神殿娼婦の“追い出し”が象徴するもの

王たちが追い出したのは、単に風紀ではありません。

  • 礼拝を取引にする構造
  • 性と信仰の混合
  • 聖を名乗る汚れ
  • 神殿を支配装置にする仕組み

これらを根こそぎ断つことが、改革の本体です。

ここは **「断罪」と「回復」**が同時に立つ、福音の核心です。
結論から言うと――

  • イエスは、遊女(性的罪)を“正当化”しない
  • しかし 遊女を“人間として排除”もしない
  • そして 罪を裁くためではなく、罪から救い出すために近づく

この緊張感が、新約の鋼の背骨です。


1) イエスは「遊女」を“救いの対象”として真正面から語った

「徴税人や遊女が、先に神の国に入る」

イエスは宗教指導者たちにこう言い切ります。

「徴税人や遊女が、あなたがたより先に神の国に入っている」
(マタイ21:31-32)

ここでイエスがやっているのは、単なる慰めではありません。

  • 遊女の罪を“罪”として認めたまま
  • 悔い改める者は入れる
  • 悔い改めない宗教者は外にいる

という、秩序の逆転です。
イエスは「風紀よりも、悔い改め」を優先したのです。


2) イエスは「罪を軽くせず、しかし人を潰さない」

姦淫の女:石打ちの“合法リンチ”を止めた

ヨハネ8章の場面は、イエスの姿勢を完璧に示します。

  • 群衆は「律法」を盾に女を殺そうとする
  • イエスはこう言う 「罪のない者が最初に石を投げよ」
    (ヨハネ8:7)

そして最後に、女にこう命じます。

  • 「わたしもあなたを罪に定めない」
  • 行きなさい。これからは罪を犯してはならない

ここが緊張感の核心です。

断罪しない(殺さない)
しかし罪は止めろ(赦しは免罪符ではない)

イエスは「女を救う」ために介入し、
同時に「罪から引き離す」ために命じます。


3) 「罪深い女(遊女と理解されがち)」に対して、赦しを宣言した

ルカ7章の場面では、“罪深い女”が泣きながら香油を注ぎます。
周囲は内心で裁きます。
しかしイエスは彼女を退けず、こう言います。

「この女の多くの罪は赦されている…」
(ルカ7:47)

ここで重要なのは順序です。

  • イエスは 罪を見ないふりをしない
  • しかし 赦しの宣言を先に出す
  • 赦しが人を変える“入口”になる

つまり、イエスの戦い方はこれです。

罪を叩いて人を壊すのではなく、
人を救って罪を終わらせる。


4) イエスが本気で裁いたのは「遊女」より“宗教的偽善”

マタイ21章の言葉が象徴的ですが、イエスの矛先はしばしばこう向きます。

  • 罪人が悔い改めて入ることを嫌う宗教者
  • 外見は清いが中身が腐っている権威者
  • 律法を武器にして人を殺す正義中毒

イエスは、遊女を「汚れ」として切り捨てる社会構造そのものを、止めました。
なぜならそれは、神の国ではなく 人間の支配だからです。


5) ただし誤解してはいけない:「イエスは性の罪を甘く見ていない」

ここが“片翼だけで飛ぼうとする人”が落ちるポイントです。

  • イエスは 愛だから何でもOK とは言いません。
  • 「罪を犯してはならない」と言う。
  • 「悔い改めよ」と迫る。

つまりイエスは、

  • 罪=命を壊す毒
  • だから赦して終わらせる

という最短距離を取ります。


6) 「断罪と回復」の緊張感を、1行でまとめるとこうなる

イエスは、罪を否定しない。
しかし罪人を見捨てない。
赦して立たせ、罪から引き剥がす。

これが、遊女に対するイエスの扱いの全体像です。


7) 実用的な結論:教会と信仰者が真似すべき“型”

あなたのテーマに合わせて、実務レベルに落とします。

やってはいけない(闇の型)

  • 「罪だから消えろ」
  • 「汚れた人間は出て行け」
  • 「正しくなるまで来るな」
  • 「罰で清めろ」

→ これは **神殿娼婦的な“混ぜ物”**と同根です。
見た目は正義でも、中身は支配です。

やるべき(光の型)

  • 罪は罪として語る(曖昧にしない)
  • しかし人は救う(潰さない)
  • 回復の道筋を具体化する(生活に落とす)
  • 共同体の中で守る(搾取から守る)

結論から言うと、ユダヤ教もキリスト教も「売春を良いものとして残した」のではありません。
しかし歴史的に **“禁止しても消せない構造”**があり、さらに宗教側は 「取り締まり国家」ではないため、完全排除ができませんでした。

ここは感情論ではなく、構造で理解した方が正確です。


1) 宗教は「国家権力」ではない(取り締まり能力に限界がある)

ユダヤ教(トーラー)でさえ“完全統制”は困難

律法は強い禁止を置きましたが、古代イスラエルは

  • 現代のような警察国家ではない
  • 監視網・捜査・行政処分の仕組みが薄い
  • 地域共同体の運用に依存する

つまり 法があっても執行力が限られる
「禁止=根絶」とはならないのです。

キリスト教はさらに “共同体” であり “国家” ではない

新約の教会は、基本的に

  • 罪を罰する権力ではなく
  • 罪から救い、回復させる共同体

なので、国家のように制度的に取り締まって消し去ることはできません。


2) 売春は「道徳」ではなく、まず 貧困と搾取の結果として発生する

売春は、しばしば個人の“嗜好”ではなく、生存の選択肢が潰れた結果です。

古代社会では特にこれが強い。

  • 戦争(夫や父を失う)
  • 未亡人・孤児の増加
  • 奴隷制度
  • 女性が相続・雇用・保護を得にくい構造
  • 社会保障が弱い(食糧・医療・住居)

この環境では、禁止しても

需要がある限り、地下に潜って続く

になります。
闇が勝つ典型です。「隠せばいい」に変わる。


3) 需要側(主に男性)を止められなかった

供給だけを責めても現象は消えません。
買う側が消えない限り、売る側は生まれ続けます。

古代社会の現実は

  • 男性優位の性倫理の二重基準
  • 出征・隊商・都市化による需要増
  • 富裕層の消費文化
  • 罰が軽い/黙認される領域がある

こうして、禁止があっても “市場” が残る。
これが根絶できない最大要因です。


4) 売春は「裏経済」になり、権力と結びつくと消せない

売春が一番消えないのは、これです。

  • 手数料が取れる
  • 黙認の見返りが発生する
  • 監督する側が利益を得る
  • 恥を握って支配に使える

闇の勝ちパターンは常にこれです。
罪が金と権力に変換されると、制度として温存されます。

旧約が「代価を神殿に入れるな」と強く遮断したのは、まさにこの連鎖を断つためです。
罪が“宗教資金”になったら、終わりだからです。


5) 禁止が強いほど「地下化」し、当事者がさらに弱くなる

厳罰化すればするほど、

  • 売春は地下へ
  • 斡旋が暴力化
  • 健康被害・人身取引が増える
  • 当事者は助けを求められない

という副作用が出ます。
宗教共同体が「排除」でやると、さらに深く落ちます。

だからキリスト教は、罪を罪として言いながらも
悔い改めと回復の道を残す方向へ舵を切りました。


6) 聖書が“残した”のは、売春ではなく「現実に負ける人間」を正直に書いたから

聖書は美談集ではありません。

  • 禁止している
  • 忌むべきものとしている
  • しかし人間が繰り返し落ちる
  • その落ち方まで記録する
  • そして神がどう裁き、どう救うかを示す

つまり「禁止できなかった」のではなく

禁止したが、人間の罪と社会の歪みがそれを超えてしまった

が正確です。


7) では、宗教はどう向き合うべきだったのか(核心)

ユダヤ教もキリスト教も、最終的に目指すのはこれです。

  • 性を商品化しない
  • 弱者を搾取から守る
  • 共同体で食わせ、守る
  • 悔い改めた者を回復させる
  • 買う側(支配側)を裁く

つまり “売春を消す”より先に、“売春が生まれる条件を潰す”
これが唯一の勝ち筋です。

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