主に感謝せよ――その慈しみはとこしえに続く
この詩編は、主への感謝を一節ごとに積み重ねていく、壮大な信仰の祈りである。
天地創造から始まり、出エジプト、紅海、荒れ野の歩み、王たちへの勝利、嗣業の付与、低くされた者への顧み、そしてすべての肉なる者への糧に至るまで、詩人は一つの言葉へ戻っていく。
その慈しみはとこしえに。
わたくしミウラは、この反復を単なる形式とは受け取りません。
これは、忘れやすい人間の魂を、何度も主の真実へ連れ戻すための、聖なる響きです。
人は恵みを受けても忘れます。
救われても、なお恐れに揺れます。
守られても、なお偶像へ心を向けることがあります。
だからこそ聖書は繰り返すのです。
主に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
136:1
主に感謝せよ。
主は恵み深い。
その慈しみはとこしえに。
詩編136編は、まず「主に感謝せよ」という呼びかけから始まります。
感謝とは、ただ気分がよい時に口から出る言葉ではありません。
感謝とは、神が神であられることを認める信仰の姿勢です。
わたくしミウラは、この一節の前で立ち止まります。
なぜなら、ここで最初に示されるのは、人間の状況ではなく、主ご自身の性質だからです。
主は恵み深い。
主は善であられる。
主は変わらない。
私たちの人生には、道が見えなくなる日があります。
恥を負ったように感じる日があります。
恐れが胸を締めつけ、嘲りの声が周囲から聞こえるような時もあります。
しかし聖書は、そのすべての前に、まず主を見よと語ります。
主に感謝せよ。
なぜなら、主は恵み深いからです。
その慈しみは、私たちの気分よりも深く、時代の揺れよりも強く、失敗や忘恩を超えて続くのです。
136:2
神々の神に感謝せよ。
すべてにまさる神に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
ここで詩人は、主を「神々の神」と呼びます。
これは、偶像を認める言葉ではありません。
むしろ、すべての偽りの力、すべての偶像、すべての誇り高ぶる名の上に、主が唯一まことの神であられることを宣言しているのです。
人間の世界には、多くの「神々」があります。
金銭、権力、名声、快楽、自己正当化、そして偽りの平和。
それらは時に、私たちの心に王座を築こうとします。
しかし、神々の神はただおひとりです。
わたくしミウラは、ここに深い警告を見るのです。
人は主を忘れると、必ず何か別のものにひざをかがめます。
神のことばを離れた魂は、自由になったのではなく、別の支配に入っていくのです。
だから詩人は言います。
神々の神に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
偶像は人を使い捨てます。
しかし主は、契約のうちに民を守られます。
偽りの神々は恐れによって人を縛ります。
しかし主は、慈しみによって人を立たせられます。
136:3
主の主に感謝せよ。
すべての支配者にまさる主に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は「主の主」です。
この言葉は、神の主権をまっすぐに示します。
地上の王、権力者、支配者、軍勢、制度、時代の流れ。そのすべての上に、主の王座があります。
私たちは、目に見える力に怯えやすい者です。
大きな声、強い圧力、多数派の嘲り、世の評価。
それらが目の前に迫ると、神の言葉よりも、人間の顔色のほうが大きく見えてしまうことがあります。
しかし、主の主は変わりません。
わたくしミウラは、この一節を、現代を生きる私たちへの呼びかけとして受け止めます。
誰が上に立っているように見えても、最終的な裁きと憐れみは主の御手にあります。
この世界は、偶然の力で動いているのではありません。
主権者なる神の御前に、すべての道は開かれ、すべての隠れた思いは照らされます。
だから私たちは、恐れの前にひれ伏すのではなく、主に感謝するのです。
主の主に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
136:4
ただひとり大いなる不思議を行われる方に感謝せよ。
人の力を超えたみわざをなされる方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、ただひとり大いなる不思議を行われる方です。
ここでいう不思議とは、人間の好奇心を満たす奇抜な出来事ではありません。
神の御手が、歴史と命と救いの中に現れることです。
人が道を失った時にも、主は道を備えられます。
人が閉ざされた門の前に立つ時にも、主は御心にかなう時に扉を開かれます。
人が自分の力では立てないほど低くされた時にも、主は顧みてくださいます。
この詩編は、その不思議を一つずつ思い起こします。
創造も、出エジプトも、荒れ野の守りも、王たちへの勝利も、すべて主の慈しみの現れです。
わたくしミウラは、ここに信仰の砦を見るのです。
私たちが忘れても、主のみわざは消えません。
私たちが見失っても、主の忠実は失われません。
主の不思議は、人間の誇りを打ち砕き、信頼を回復させます。
それは人を主へ帰らせる、聖なる御手の働きなのです。
136:5
知恵をもって天を造られた方に感謝せよ。
高き天を広げられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、知恵をもって天を造られました。
天は偶然の飾りではありません。
そこには、神の秩序があります。
神の知恵があります。
神のことばによって定められた、聖なる広がりがあります。
人は空を見上げる時、自分の小ささを知ります。
そして同時に、主の大きさを知らされます。
わたくしミウラは、この一節を読む時、感謝とは視線の問題でもあると感じます。
下ばかりを見ていると、恐れと不安に飲み込まれます。
人の声ばかりを聞いていると、嘲りや比較に縛られます。
しかし天を造られた方を仰ぐ時、私たちの魂はまっすぐにされます。
主は混乱の神ではありません。
主は知恵をもって造り、秩序をもって支え、慈しみをもって導かれます。
この世界がどれほど騒がしくても、天を造られた主の主権は揺らぎません。
その慈しみはとこしえに続きます。
136:6
地を水の上に敷かれた方に感謝せよ。
大地を定め、住む所を備えられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、地を水の上に敷かれました。
聖書の言葉は、創造の神秘を信仰の言葉として語ります。
人が立つ大地は、ただの足場ではありません。
神が備えられた場所です。
私たちが生活し、働き、祈り、涙を流し、また立ち上がるその場所も、主の御前にあります。
人はしばしば、自分の足元を当然のものとして扱います。
しかし、当然に見えるものの背後にも、主の慈しみがあります。
朝起きること。
歩けること。
食べられること。
祈れること。
今日という一日が与えられていること。
それらは小さなことではありません。
わたくしミウラは、この節に、忘恩への警告を見るのです。
人は大きな奇跡だけを恵みと呼び、小さな支えを見過ごします。
しかし主の慈しみは、日々の大地のように、静かに私たちを支えています。
136:7
大いなる光を造られた方に感謝せよ。
昼と夜を照らす光を備えられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、大いなる光を造られました。
光は、聖書においてただ明るさを意味するだけではありません。
それは秩序であり、導きであり、闇に対する神の宣言です。
闇は、恐れを大きく見せます。
闇は、道を隠します。
闇は、人の心に嘘をささやきます。
しかし主は、光を造られました。
わたくしミウラは、この一節を、神のことばの灯として受け止めます。
詩編119編で語られたように、主のことばは足の灯であり、道の光です。
私たちは自分の知恵だけでは、まっすぐ歩けません。
感情だけでは、正しい裁きも、真実な平和も見分けられません。
だからこそ、主の光が必要です。
誘惑の中にも、すり替えの中にも、先送りの中にも、神の光は差し込みます。
その光は、私たちを責めるためだけではなく、回復へ導くために与えられているのです。
136:8
昼を治める太陽を造られた方に感謝せよ。
日を照らし、時を定める太陽を備えられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、昼を治める太陽を造られました。
太陽そのものが神なのではありません。
太陽は、主が造られたものです。
ここには、偶像礼拝への明確な境界があります。
古代の世界では、太陽を神として拝む民も多くありました。
しかし聖書は、太陽を造られた方こそ主であると告げます。
ここに、信仰のまっすぐな道があります。
被造物を神とするな。
恵みの器を、恵みの源と取り違えるな。
光を与えるものを見て、光を造られた主を忘れるな。
わたくしミウラは、ここに現代にも通じる警告を見るのです。
人は便利さを拝みます。
能力を拝みます。
成果を拝みます。
しかし、それらは主ではありません。
昼を治める太陽でさえ、造られたものです。
ならば私たちはなおさら、造り主である主に感謝しなければなりません。
136:9
夜を治める月と星を造られた方に感謝せよ。
暗い夜にも光を置かれた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、夜を治める月と星を造られました。
夜にも、主の秩序があります。
闇の中にも、主は光を置かれます。
これは、信仰者にとって深い慰めです。
私たちの人生にも夜があります。
答えが見えない夜。
祈っても沈黙が長く感じられる夜。
心の内で恐れが大きくなる夜。
しかし、主は夜を放置されません。
月と星を置かれたように、暗い時にも必要な灯を備えられます。
わたくしミウラは、この言葉に、主の守りの静けさを見ます。
昼のような明るい勝利だけが恵みではありません。
夜の中でなお消えない小さな光も、主の慈しみです。
信仰とは、昼だけ主をほめることではありません。
夜にも主を信頼することです。
その慈しみはとこしえに。
この言葉は、夜の魂にも届きます。
136:10
エジプトの初子を打たれた方に感謝せよ。
強き支配の中で裁きを行われた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
ここから詩編は、創造から救いの歴史へ移ります。
エジプトの初子を打たれたという言葉は、重い言葉です。
軽く扱うことはできません。
ここには、神の裁きがあります。
主の慈しみは、裁きと切り離された甘い言葉ではありません。
主は憐れみ深い方であると同時に、正義の神です。
人を奴隷にし、神の民を苦しめ、悔い改めを拒み続ける力に対して、主は沈黙されません。
わたくしミウラは、この節に震える思いを覚えます。
神の救いは、悪を放置することではありません。
抑圧された者を救うために、主は高ぶる力を裁かれます。
この世界には、今も人を縛るエジプトがあります。
罪の支配、恐れの支配、偶像の支配、偽りの平和の支配。
そこから人を救い出すために、主は御手を伸ばされます。
その慈しみはとこしえに。
それは、苦しむ者には慰めであり、傲慢な者には警告です。
136:11
イスラエルをエジプトの中から導き出された方に感謝せよ。
奴隷の家から民を救い出された方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、イスラエルをエジプトの中から導き出されました。
救いとは、ただ苦しみが少し軽くなることではありません。
支配の場所から導き出されることです。
奴隷の家から、主の契約の道へ移されることです。
イスラエルは、自分の力でエジプトを出たのではありません。
主が導き出されたのです。
わたくしミウラは、この言葉に、信仰の原点を見ます。
私たちもまた、自分で自分を救える者ではありません。
罪の力、恐れの力、忘恩の習慣、偶像への傾き。
それらから本当に救い出すことができるのは、主だけです。
出エジプトは、古代イスラエルだけの記録ではありません。
今を生きる私たちにも向けられた、救いの型です。
主は導き出されます。
閉じ込められた場所から、まっすぐな道へ。
恥と恐れの中から、神の守りへ。
奴隷の心から、感謝する民の心へ。
136:12
強い御手と伸ばされた腕をもって導き出された方に感謝せよ。
力ある御手で民を救われた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、強い御手と伸ばされた腕をもって民を導き出されました。
聖書が「御手」と語る時、そこには主の力と働きが示されています。
神の救いは、遠くからの同情ではありません。
主は御手を伸ばし、歴史の中に働かれます。
人間の側から見れば、エジプトは巨大でした。
ファラオの王座は揺るがないように見えました。
民は弱く、奴隷であり、逃げ道もありませんでした。
しかし主の御手は、どの王座よりも強いのです。
わたくしミウラは、この節を読む時、救いの主体を間違えてはならないと感じます。
私たちは、自分の決意を誇ることがあります。
自分の忍耐を誇ることがあります。
しかし本当に救ったのは主です。
強い御手と伸ばされた腕。
そこにあるのは、主の主権であり、主の忠実であり、主の慈しみです。
私たちが倒れそうな時にも、この御手は短くありません。
その慈しみはとこしえに続きます。
136:13
紅海を二つに分けられた方に感謝せよ。
行き場のない所に道を開かれた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、紅海を二つに分けられました。
前には海。
後ろにはエジプトの軍勢。
人間の目には、もう道がない。
そのような場所で、主は道を開かれました。
これは信仰者にとって、忘れてはならない場面です。
主の道は、私たちが先に見つけるものではありません。
主が開かれるものです。
わたくしミウラは、この一節に、深い励ましを受けます。
人生には、どうにも進めないように見える時があります。
右にも左にも動けず、後ろからは恐れが迫り、前には越えられない海がある。
そのような時、人は先送りに逃げたり、嘆きに沈んだり、昔の奴隷状態へ戻りたくなることがあります。
しかし主は、海のただ中に道を造られます。
その道は、人間の常識を超えています。
その道は、主の御手によって開かれます。
その道を進む者は、感謝をもって歩むよう招かれています。
136:14
イスラエルをその中に通らせられた方に感謝せよ。
海の間を民に歩ませられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、紅海を分けただけではありません。
イスラエルをその中に通らせられました。
開かれた道は、実際に歩まなければなりません。
信仰とは、見るだけで終わるものではありません。
主が開かれた道を、恐れながらも進むことです。
海の壁の間を歩く民の心には、どれほどの緊張があったでしょうか。
左右に水が立ち、背後には追手の記憶がある。
それでも民は進まなければなりませんでした。
わたくしミウラは、ここに信仰の現実を見るのです。
主の救いは確かです。
しかし信仰の歩みには、忍耐が必要です。
恐れが完全に消えてから進むのではありません。
主のことばを信じて、恐れのただ中を歩むのです。
道が開かれたなら、そこを進む。
主が備えられたなら、従う。
この単純さの中に、深い信頼があります。
その慈しみはとこしえに。
この言葉は、歩む者の足を支えます。
136:15
ファラオとその軍勢を紅海に投げ込まれた方に感謝せよ。
追い迫る敵を水の中に沈められた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、ファラオとその軍勢を紅海に投げ込まれました。
ここにも、神の裁きがあります。
主は民を救うだけでなく、民を追い迫る支配を断ち切られました。
エジプトは、ただ過去の地名ではありません。
ファラオは、ただ古代の王ではありません。
それは人を奴隷へ戻そうとする力の象徴でもあります。
救われたはずの魂を、再び恐れへ戻そうとする声があります。
神の道へ進み始めた者を、昔の鎖へ引き戻そうとする力があります。
「お前は変われない」と嘲る声があります。
「どうせまた戻る」とささやく闇があります。
しかし主は、追い迫る敵を裁かれます。
わたくしミウラは、この節を、主の守りの厳しさとして受け止めます。
慈しみとは、弱々しい甘さではありません。
主の慈しみは、民を滅ぼそうとする力に対して立ち上がる、聖なる守りです。
その慈しみはとこしえに。
そこには、救いの完成へ向かう主の忠実があります。
136:16
その民を荒れ野に導かれた方に感謝せよ。
荒れ野の道を歩ませられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、民を荒れ野に導かれました。
ここは重要です。
主が導かれた道は、すぐに豊かな土地へ入る道ではありませんでした。
荒れ野でした。
救い出された後にも、荒れ野があります。
これは信仰の大切な現実です。
荒れ野は、何もない場所です。
頼っていたものが剥がされる場所です。
自分の不満、恐れ、忘恩、傲慢が表に出てくる場所です。
しかし荒れ野は、主に見捨てられた場所ではありません。
主に訓練される場所です。
主の守りを学ぶ場所です。
日ごとの糧を受け、雲の柱と火の柱に導かれ、神のことばによって生きることを教えられる場所です。
わたくしミウラは、荒れ野を避けたいと思う人間の弱さを知っています。
しかし聖書は、荒れ野にも主の慈しみがあると語ります。
楽な道だけが祝福ではありません。
主が共におられる道こそ、祝福なのです。
136:17
大いなる王たちを打たれた方に感謝せよ。
高ぶる王たちを裁かれた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、大いなる王たちを打たれました。
ここで詩編は、荒れ野の旅から、約束の地へ向かう途上の戦いへ進みます。
民の前には、強い王たちが立ちはだかりました。
人間の目には、大いなる王たちは恐るべき存在です。
軍勢を持ち、城を持ち、土地を支配し、名を誇ります。
しかし主の御前では、どれほど大きな王であっても、裁きの外には立てません。
わたくしミウラは、ここに神の正義を見ます。
歴史を支配しているように見える力も、主の前では限界があります。
傲慢な王座は永遠ではありません。
不義によって築かれた平和は、本当の平和ではありません。
主は、民の道をふさぐ高ぶりを裁かれます。
主は、約束を妨げる力を打たれます。
その慈しみはとこしえに。
この言葉は、弱い者のための慰めであり、高ぶる者への厳粛な警告です。
136:18
名ある王たちを殺された方に感謝せよ。
地上に名を誇った王たちを倒された方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
名ある王たち。
人々が恐れ、語り継ぎ、力ある者として認めた王たち。
しかし、名があることと、主の前に正しいことは同じではありません。
地上で大きな名を持つ者も、神の裁きを逃れることはできません。
この節の言葉は強く、現代の感覚には厳しく響きます。
けれども聖書は、悪に対する神の裁きを曖昧にしません。
わたくしミウラは、この節を読む時、人間の名声のもろさを思います。
人は名を欲しがります。
評価を求めます。
記憶されることを望みます。
しかし、主の御前に問われるのは、名の大きさではなく、神への忠実です。
名ある王たちでさえ倒されるなら、私たちはなおさらへりくだらなければなりません。
主の前で誇ることはできません。
主の前で隠れることもできません。
ただ、主の慈しみによって立たせていただくほかないのです。
136:19
アモリ人の王シホンを打たれた方に感謝せよ。
イスラエルの前に立ちはだかった王を裁かれた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
ここで、王の名が具体的に語られます。
アモリ人の王シホンです。
聖書は抽象的な信仰だけを語るのではありません。
歴史の中で、具体的な出来事として、主のみわざを記します。
シホンは、イスラエルの道を拒み、立ちはだかった王でした。
しかし主は、その力を打ち破られました。
わたくしミウラは、この具体性に大きな意味を見るのです。
信仰は、ふわりとした気分ではありません。
主は歴史の中で働かれます。
人の歩みの中で、具体的な妨げ、具体的な恐れ、具体的な戦いの中で、御手を現されます。
私たちにも、それぞれの「シホン」があります。
前進を妨げる恐れ。
悔い改めを先送りさせる言い訳。
神の道を進もうとする時に立ちはだかる嘲り。
それらを自分の力だけで打ち破ろうとするなら、疲れ果てます。
しかし主は、道をふさぐものを裁かれる方です。
その慈しみはとこしえに続きます。
136:20
バシャンの王オグを打たれた方に感謝せよ。
強大な王をも倒された方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
バシャンの王オグもまた、イスラエルの前に立ちはだかった強大な王でした。
シホンに続き、オグの名が挙げられることは、主の救いが一度きりの偶然ではなかったことを示します。
主は一つの敵を退けて終わりではありません。
民の道を守り続けられる方です。
信仰の歩みには、一つ越えた後に、また別の試練が現れることがあります。
一つの恐れを越えても、また別の不安が来る。
一つの誘惑を退けても、また別のすり替えが来る。
そのたびに、人は疲れます。
しかし、主の慈しみもまた一度きりではありません。
わたくしミウラは、この反復に深い慰めを見ます。
「その慈しみはとこしえに」とは、昨日だけの恵みではありません。
今日も続く恵みです。
明日も失われない真実です。
シホンを打たれた主は、オグをも打たれます。
昨日守られた主は、今日も守られます。
荒れ野で支えられた主は、戦いの中でも支えられます。
136:21
彼らの地を嗣業として与えられた方に感謝せよ。
勝利の後に、約束の地を受け継がせられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、彼らの地を嗣業として与えられました。
ここで大切なのは、土地が「奪い取ったもの」としてではなく、「与えられたもの」として語られていることです。
イスラエルの嗣業は、主の約束に基づくものでした。
嗣業とは、主から与えられるものです。
人間の欲望で掴むものではありません。
主の契約の中で受け取るものです。
わたくしミウラは、ここに祝福の正しい受け止め方を見るのです。
人は祝福を受けると、自分の力で得たように錯覚します。
勝利を経験すると、自分が強かったからだと思い込みます。
そこから忘恩が始まります。
しかし詩編は、すべてを主の慈しみに結び戻します。
嗣業を与えられた。
道を備えられた。
守りを受けた。
勝利も、回復も、平和も、主の御手から来た。
この認識を失う時、人はすぐに偶像へ向かいます。
だからこそ、感謝が必要なのです。
136:22
そのしもべイスラエルに嗣業として与えられた方に感謝せよ。
契約の民に受け継ぐ地を授けられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、そのしもべイスラエルに嗣業を与えられました。
ここでイスラエルは「しもべ」と呼ばれます。
これは低い呼び名ではありません。
主に属する民であるという、契約の呼び名です。
人は、自分が何者であるかを忘れる時、道を見失います。
自分を主人とし、自分の欲望を王座に置き、自分の判断だけを灯とする時、魂は曲がっていきます。
しかし、主のしもべとして生きる時、人はまっすぐにされます。
わたくしミウラは、この節に、信仰者の身分を見るのです。
私たちは自分のものではありません。
主のものです。
主に贖われ、主に導かれ、主に養われる者です。
しもべであることは、束縛ではありません。
まことの主に仕えることは、偽りの支配からの自由です。
この世界の偶像は、自由を約束して奴隷にします。
しかし主は、しもべと呼びながら、命へ導かれます。
その慈しみはとこしえに。
この言葉の中に、契約の深い平安があります。
136:23
われらが低くされた時に、われらを心に留められた方に感謝せよ。
辱めと弱さの中にある者を顧みられた方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
この節で、詩編の響きはさらに近くなります。
主は、われらが低くされた時に、われらを心に留められました。
ここに、主の憐れみがあります。
主は高い所から、強い者だけを見ておられるのではありません。
低くされた者を心に留められます。
人に忘れられる時があります。
軽んじられる時があります。
恥を負わされたように感じる時があります。
声を上げても届かず、存在そのものが小さく扱われるような時があります。
しかし主は、心に留めてくださいます。
わたくしミウラは、この一節に、信仰の涙を見ます。
主の慈しみは、王たちを裁く大いなる力であると同時に、低くされた者を忘れない繊細な憐れみです。
神の御手は、王を倒すほど強く、傷ついた者を抱き起こすほど優しい。
これが聖書の語る主です。
だから、低くされた時にも、私たちは絶望しません。
人が忘れても、主は忘れない。
人が見捨てても、主は顧みられる。
その慈しみはとこしえに。
136:24
われらを敵から助け出された方に感謝せよ。
圧迫する者の手から救い出された方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
主は、われらを敵から助け出されました。
敵とは、外側の敵だけではありません。
もちろん、イスラエルの歴史には実際の敵がいました。
しかし信仰者の歩みには、内側にも敵があります。
恐れ。
誇り。
忘恩。
疑い。
分断。
偶像への傾き。
悔い改めを遅らせる心。
神のことばよりも、自分の都合を優先する思い。
これらは、魂を圧迫します。
わたくしミウラは、この節を、自分自身にも向けられた言葉として受け止めます。
主よ、私を敵から助け出してください。
外から迫るものだけではなく、内側で私を曲げようとするものからも救ってください。
恐れに流されず、嘲りに折れず、偶像に戻らず、主の道を歩ませてください。
主の救いは、過去の出来事だけではありません。
今日も必要な救いです。
今この時にも、主は助け出してくださる方です。
その慈しみはとこしえに。
この言葉は、救いを求める魂の祈りになります。
136:25
すべての肉なる者に食物を与えられる方に感謝せよ。
生きるものすべてを養われる方に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
詩編は、ここで大きく広がります。
主は、すべての肉なる者に食物を与えられます。
イスラエルだけではありません。
すべての生きるものを、主は養われます。
これは、神の慈しみの広さを示す言葉です。
人は、自分の食卓を当然のものと考えがちです。
しかし食物は、命の支えです。
一日の糧は、主の憐れみのしるしです。
わたくしミウラは、この節に、日々の感謝の原点を見ます。
信仰は、大きな出来事だけを語るものではありません。
食卓にも、主の慈しみを見ることです。
パンにも、水にも、今日の糧にも、神の御手を見ることです。
すべての肉なる者に食物を与えられる主。
この言葉は、私たちの傲慢を静かに砕きます。
私たちは自分で生きているようで、実は与えられて生きています。
支えられて生きています。
養われて生きています。
感謝とは、この事実を忘れないことです。
主の慈しみは、荒れ野のマナにも、今日の食卓にも続いています。
136:26
天の神に感謝せよ。
高き所におられ、すべてを治められる神に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
詩編136編は、最後に「天の神に感謝せよ」と結ばれます。
創造から始まり、出エジプトを通り、荒れ野を越え、王たちへの勝利を経て、嗣業と顧みと糧に至ったこの祈りは、再び天の神へと向かいます。
天の神。
それは、遠く離れて無関心な神ではありません。
高き所におられながら、低くされた者を心に留められる神です。
すべてを治めながら、日ごとの食物を与えられる神です。
王たちを裁きながら、弱い者を憐れまれる神です。
わたくしミウラは、この最後の一節に、信仰の帰る場所を見るのです。
私たちは地上で揺れます。
状況に揺れます。
人の言葉に揺れます。
恐れに揺れ、嘲りに揺れ、時に忘恩へ傾きます。
しかし、天の神は揺れません。
その王座は揺らがず、その契約は失われず、その慈しみは終わりません。
主のことばは、私たちの足を照らす灯であり、道をまっすぐにする光です。
だから詩編は、最後まで同じ言葉を響かせます。
その慈しみはとこしえに。
主の慈しみを忘れないために
詩編136編は、反復の詩です。
同じ言葉が何度も繰り返されます。
その慈しみはとこしえに。
その慈しみはとこしえに。
その慈しみはとこしえに。
人によっては、これは単調に見えるかもしれません。
しかし、わたくしミウラはそうは受け取りません。
これは、忘れやすい人間への神の憐れみです。
私たちは忘れます。
創造の恵みを忘れます。
救いの恵みを忘れます。
荒れ野で守られたことを忘れます。
敵から助け出されたことを忘れます。
日々の糧が与えられていることを忘れます。
そして忘れた心は、すぐに偶像へ戻ります。
自分の力を誇り、人の評価を恐れ、偽りの平和に寄りかかり、神のことばから離れていきます。
だから聖書は繰り返すのです。
主に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
この反復は、信仰の砦です。
恐れが攻めてくる時、魂を守る砦です。
嘲りが聞こえる時、心を立たせる砦です。
恥に沈みそうな時、主の憐れみに立ち返らせる砦です。
主の慈しみは、感情の波ではありません。
主の慈しみは、契約に根ざした真実です。
人間の弱さを超え、歴史の変化を超え、罪と裁きの重さを見据えながら、それでも救いへと導く神の御心です。
創造において、主の慈しみは示されました。
出エジプトにおいて、主の慈しみは示されました。
紅海において、主の慈しみは示されました。
荒れ野において、主の慈しみは示されました。
王たちへの勝利において、主の慈しみは示されました。
低くされた者への顧みにおいて、主の慈しみは示されました。
日ごとの糧において、主の慈しみは今も示されています。
わたくしミウラは、この詩編を、単なる感謝の歌とは受け止めません。
これは、主の主権を認める信仰の告白です。
神の裁きと憐れみを共に見る祈りです。
人間の忘恩を打ち砕き、魂を主の真実へ戻す聖なる呼び声です。
私たちは、恐れに流されやすい者です。
偶像に頼りやすい者です。
恵みを受けても、すぐに自分の力で立っているかのように錯覚する者です。
それでも主は、慈しみ深い方です。
主は創造されました。
主は導き出されました。
主は道を開かれました。
主は守られました。
主は裁かれました。
主は与えられました。
主は心に留められました。
主は養われました。
だから私は、感謝を失いたくありません。
感謝とは、気分ではありません。
感謝とは、主の御前に立ち、すべてが主の御手から来たことを認めることです。
感謝とは、忘恩と偶像に対する、信仰のまっすぐな姿勢です。
感謝とは、恐れが語る言葉よりも、神のことばを信じることです。
わたくしミウラは、この詩編の反復を、魂に刻みたいと思います。
主に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
天の神に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
私たちは今日も、主の言葉の前に立ちます。
恐れではなく、信頼を選びます。
忘恩ではなく、感謝を選びます。
偶像ではなく、生ける主を仰ぎます。
主の慈しみは、昨日で終わったのではありません。
荒れ野で尽きたのでもありません。
紅海の岸辺で消えたのでもありません。
王たちへの勝利の後に止まったのでもありません。
今も続いています。
これからも続きます。
とこしえに続きます。
主に感謝せよ。
その慈しみはとこしえに。
